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2009年4月 1日 (水)

元検事・モトケンブログによる政治資金規正法の「虚偽記載」の解釈について(一部反論)

民主党議員で弁護士の階猛(しなたけし)氏のブログ「弁護士としての見解-小沢代表秘書問題」に次のような記述がある。

「今回の逮捕・勾留の理由につき、検察は、①政治家の資金管理団体が企業献金を受けた罪、②他人名義でなされる企業献金を受けた罪、③収支報告書の寄付者の欄に虚偽の記載をした罪、という3つの罪の容疑があると説明しています。いずれの罪も、今回の献金が政治団体ではなく企業からのものである場合に成立します。

しかしながら、問題となっている献金は、すべて企業からのものではなく合法とされている政治団体からのものです。受け取った側としては、政治団体からの献金として処理するのは当然です。

報道によると、資金源が西松建設なのだから企業献金であるということのようですが、「政治団体からの献金でも資金源が企業の場合は企業献金と見なす」という規定はどこにもありません。もし今回の件が処罰対象になるとすると、法に書かれていない罪で国家が国民を処罰することになり、罪刑法定主義に反すると思います。

マスコミの中には「違法献金事件」として報じているところもありますが、そもそも違法な献金と言えるのかが問題なのです。」

この民主党議員のブログで述べている上記①②③の3つの罪は、いずれも、「今回の献金をした献金者(寄付をした者)は、政治団体ではなく企業(西松建設)であるということが成り立つこと」が前提であり、検察は上記のことが成り立つという法解釈及び事実認定を採用して、今回の起訴を行っている。

この民主党議員のブログに対して、元検事で弁護士兼創価大学法科大学院教授によるモトケンブログさんが、おそらく検察の法解釈を支援する立場から、小沢秘書の行為に関して、政治資金規正法違反でいう「虚偽記載」とは何かについて、解釈論を展開している。

つまり、西松建設Aが資金源である(この事実については誰もほぼ争いはないだろう)場合に、政治団体Bがその資金を自らの名義で小沢事務所側Cに献金した場合、「献金した者」はAなのかBなのか、つまり、献金を受けた側Cは「献金した者」の名前を収支報告書に記載する必要があるが、AとBのどちらを記載すればよかったのか、という問題だ。

「献金した者」が西松建設Aだと解釈すれば、収支報告書には「A」と記載すべきなのに「B」と記載したのは「虚偽記載」となる。他方、「献金した者」が政治団体Bだと解釈すれば、収支報告書には「B」と記載すべきで本件のように「B」と記載したときは「虚偽記載」ではないことになる。

モトケンブログでは、検察に味方したいというバイアスがあるのかどうか分からないが、検察が喜びそうな解釈(僕から見るとかなり苦しい解釈?)が展開されているが、これを読んで、主な論点は2つあると思った。全体はモトケンブログを見てもらうとして、主な論点の2つについて、以下に僕の意見を述べておきたい。

1.  まず、第1の論点として、「虚偽記載の罪」は形式犯だから、虚偽記載かどうか(虚偽かどうか)は形式的な基準で解釈すべきかどうか、について

モトケンブログさんの「虚偽記載とその故意(2)」の記事では、架空の事例を想定して、次のような解釈論を展開されている(架空の事例を挙げるのは、今回のように具体的事実がまだ不明な場合でも解釈論だけを論じるために有効)。

「・・・「形式犯」とは何かですが、手近なところで、ウィキペディアの定義を引用します。

保護法益の侵害や、危険の発生が成立の要件とはされない。一定の法益を保護するために、一定の行為規制を守らせることとし、かかる行為規制への形式的な違反をもって犯罪とするものである。

 水口弁護士の「形式犯」の定義がウィキペディアの定義と同様かどうかは不明ですが、

これはいわゆる形式犯ですから、虚偽であるか否かは形式的な事実認識が問われるはずです

と述べられています。
 これは、ウィキペディアの定義の「かかる行為規制への形式的な違反」に対応しているように思われます。

 しかし、「形式犯」は一定の実質的な法益侵害結果(またはその危険の発生)を必要とする「実質犯」の概念に対比されるものであり、「形式犯」の形式犯たる所以は「一定の行為規制を守らせること」にあるのであって、行為規制が守られているかどうかの判断基準が形式的であることを要するものではない、と私は考えます。
 形式犯の典型例として「運転免許不携帯罪」が
挙げられていますが、この犯罪の場合は、行為規制が「免許証を携帯すること」、つまり免許証を少なくとも運転中の車の中に置いていることが要求されておりその違反が問題になりますから、形式的判断で足ります。車の中にあるかないかだけを確認すればいいのですから。

 では本件で何が問題になるかというと、献金者についての虚偽記載の有無です。
 献金者についての虚偽記載の有無とは、献金者と誰それから献金を受けた旨の収支報告書の記載が一致するかどうか、という問題です。
 一致するかどうかの前提として、献金者は誰かという問題と収支報告書の記載上誰から献金を受けたことになっているかが確定される必要があります。
 その確定なくして一致しているかどうかの判断ができないからです。
 献金者と収支報告書の記載が確定した後の一致するかどうかの判断においては、さきほどの運転免許不携帯罪の成否の判断と同様に「形式的に」判断することが可能だと思われます。

 しかし、一致判断の前段階の「献金者は誰か?」という問題場面においては、形式的判断基準で判断しなければならない論理的必然性はありませんし、形式的基準で判断することはできないだろうと思います。

 この問題状況を運転免許不携帯罪の成否にあてはめますと、仮に運転者が運転免許証(に一見して見えるもの)を持っていたとしても、それが当該運転者にとって有効かどうかの問題と似ています。
 仮に、有効なものでなければ(例えば偽造免許証)、やはり運転免許不携帯罪は成立するのであって、その場合に運転免許証が有効かどうかは必ずしも形式的判断では答がでません

 したがって、「これはいわゆる形式犯ですから、虚偽であるか否かは形式的な事実認識が問われるはずです。」というご意見には直ちに賛成できかねるところがあります。」

しかし、上記の「偽造の免許証」は「免許証」とは言えないもの(完全なニセモノ)であるから、形式的な基準で見ても「免許証」は存在していないので、上記の事例は、上記の「有効なものでなければ(例えば偽造免許証)、やはり運転免許不携帯罪は成立するのであって、その場合に運転免許証が有効かどうかは必ずしも形式的判断では答がでません。」という主張を基礎付けるための事例としては適切ではないと思う(こういう適切でない事例をわざわざ出してくるのは、ミスで無い限りは、何らかのバイアスが掛かっているためかと思われる)。

これを検討するための事例としては、「形式的には存在しているが何らかの理由で実質的に無効であるような免許証」の方がより適切だ(例えば免許を受けるときに届け出た氏名と住所が虚偽であった場合は、本人が免許を受けたときに本人がそれについて故意だったか過失だったか無過失だったかに関係なく、免許証は形式的には存在しているが無効だろう)。

このような「形式的には存在しているが実質的に無効であるような免許証」を携帯していたという事例を考えると、形式犯としての免許証不携帯罪は、形式的には存在している免許証を携帯していても、実質的に無効であるならば、「実質的に有効な免許証」ではないということで不携帯罪が成立するだろうか? おそらく、形式犯だから、形式的基準から判断して、免許証は少なくとも形式的には存在しているのだから、不携帯罪にはならないという結論になるべきであり、この結論は、ほとんどの人が(モトケンブログさんも?)賛成するのではないだろうか?

つまり、モトケンブログさんは、「「形式犯」は一定の実質的な法益侵害結果(またはその危険の発生)を必要とする「実質犯」の概念に対比されるものであり、「形式犯」の形式犯たる所以は「一定の行為規制を守らせること」にあるのであって、行為規制が守られているかどうかの判断基準が形式的であることを要するものではない、と私は考えます。」と述べている。

しかし、そもそも形式犯を設けるのは、(例えば「車は左、人は右」のように)一般人なら誰でも(深く考えないでも)分かるように形式的な基準で行為を規制するためであるから、その解釈を実質的にやるというのでは、一般人にとって形式犯に該当する行為がどのようなものか分からなくなってしまうので、一体何のために形式犯にしたのか分からなくなるし、罪刑法定主義上も問題があると思う。したがって、「形式犯」の形式犯たる所以は「一定の行為規制を守らせること」にあるのであるから、行為規制が守られているかどうかの判断基準も(一般人が容易に分かるように)形式的であることを要すると考えるのが妥当だ(罪刑法定主義からも)、というべきだろう。

よって、この第1の論点についてのモトケンブログさんの見解は妥当でないと考える。

2. 次に、第2の論点として、「企業(西松建設)を資金源としながら、個人・団体が献金したとき、どのような場合に、『献金した者』が個人・団体ではなく企業(西松建設)だということになるのか」、つまり、企業(西松建設)A→個人・団体B→政治家事務所Cへと資金が流れたとき、収支報告書に「献金した者」の名前を書くとき、どのような場合に個人・団体Bの名前を書いて、どのような場合に企業Aの名前を書くべきか? ということについて

この点について、モトケンブログさんの「虚偽記載とその故意(2)」の記事では、架空の事例を想定して、次のような解釈論を展開している。

「では、とういう場合に虚偽と言い得るのかという点が次に問題になります。
 こういう場合は、極端例から考えていくというのが私の常套手段です。

 (1) 西松建設が、全く存在しない架空の政治団体名義(仮に、A政治団体)で献金をした場合は、A政治団体こと西松建設と認定することが容易だろうと思われます。
 その場合は、真実の献金者は西松建設、収支報告書の献金者はA政治団体となって、虚偽記載と言えるという結論に異論を挟む論者はいないだろうと思います。

 (2) 次に、二階俊博・経済産業相との関係で報道されているように、仮に、西松建設の総務部幹部が実在の同社の社員や家族らの名義で、社員らの承諾を得ることなく献金していた場合は、その献金は社員らの金であるというわけにはいかず、また社員らの意思に基づかないわけですから、社員らの献金であるということはできず、社員らを献金者として収支報告書に記載した場合は、結局、虚偽記載になるという点についても異論を見ないのではなかろうかと思っています。

 (3) 次に、本件の検察の捜査について批判的な論者も、収支報告書に記載された政治団体が完全なダミーであった場合は虚偽記載になることを肯定されています。
 ただし、「完全なダミー」というのがどういう場合を言うのかについては明確な意見はなかったように記憶しています。
 「ダミー」というのはダミーとして(ダミーの限度で)存在していることを前提とする議論であると解されますので、(1)のように全くの不存在である場合とは異なると思われます。
 となると、何らかの形で存在しているがそれは政治団体とは認められない状態を言うことになりますが、そのような評価・判断は形式的判断とはほど遠いものであり、実質的判断と言わざるを得ないのではないかと思われます。

 (4) さらに別の例を挙げますが、例えば(2)の例のように、西松建設の従業員の名前で献金する場合において、総務部幹部が従業員の甲に対して、「小沢氏の政治団体に献金したいのだが、君の名前を献金者として使わせてもらえないか。金は会社のほうでだすから君は名義を貸してくれるだけでいい。」と持ちかけ、甲がそれに対して「わかりました。どうぞ私の名前を使って下さい。」と承諾し、総務部幹部が甲の名前で献金して、収支報告書には甲から献金を受けたと記載された場合はどうでしょうか。
 この場合は、甲は実在しており、甲の意思に基づいて会社の金が甲名義で政治団体に寄付されたということができます。
 さて、虚偽記載かそうでないかどちらでしょうか?
 私は、虚偽記載だと思います。

 では、この(4)の場合の甲を、ダミーとは言い難い政治団体に置き換えた場合はどうでしょうか?
 私の結論は、(4)と同様です。

 以上は、客観的にみて(つまり事実として)虚偽かどうかの問題を考えてみました。」

上記の引用した記事には、所定のバイアスからの意識的なものかどうかは分からないが、レトリックによる誘導・すり替えが行われていると思う。それは、上記の「では、この(4)の場合の甲を、ダミーとは言い難い政治団体に置き換えた場合はどうでしょうか? 私の結論は、(4)と同様です。」の部分だ。

ここでは、いかにも、上記の「(4)の場合の甲を、ダミーとは言い難い政治団体に置き換えた場合」が、小沢秘書のケースと同様の事例だと「匂わせて」いる。

しかし、上記(4)の事例のポイントは、「企業(総務部幹部)が・・・甲の名前を使って)献金した」という部分であり、甲(社員)が承諾していたとしても、「献金した者」はあくまで「企業(総務部幹部)」だったというのがポイントだ。よって、上記(4)は、「政治団体が・・・献金した」という小沢秘書のケースとは大きく異なっているので、これを類似の事例のように「匂わせる」のは論理的でない。

なお、この(4)の場合には、収支報告書の「献金した者」の名前としては「企業(総務部幹部)」を書くべきだというモトケンブログさんの解釈は、少し微妙な場合もありえるが、基本的に妥当だと僕も思う。なぜなら、上記(4)の場合は、「形式的な基準」という点から考えると、「企業(総務部幹部)が・・・献金した」場合に当たるからだ。つまり、上記(4)の場合は、少なくとも形式的には、ATMを操作して振り込んで「献金した」のは「企業(総務部幹部)」なのだから、(誰の名義でやったかは問わず、またその名義人が承諾していたかどうかを問わず)「企業(総務部幹部)が献金した」場合に当たる、だから、「献金した者」は企業(総務部幹部)だ、と見るのが、形式犯としての解釈(形式的基準でやる)に適しているからだ。(ただ、実質的な基準をも考慮すべきという立場からは、総務部幹部は「甲の手足」としてATMから振り込んだだけだと言える場合は、甲という個人が献金者だという結論になる場合もありえるだろう)。

とにかく、以上のように、小沢秘書の場合は、「政治団体が自分でATMなどから献金した場合」だから、「企業(総務部幹部)がATMから献金した場合」である上記(4)の場合と同列に論じようとするのは、全く論理的ではないと思う。

なお、ここで、この第2の論点に関して、僕の考えを次に纏めておきたい。まず、モトケンブログさんの仮想事例を参考に、次の4つの仮想事例を考えてみたい(以下の①~④は虚偽記載となりやすい順)。

企業(西松建設)が、実在しない架空の個人・団体」の名義を使って、献金した場合(モトケンブログさんの(1)の事例に相当)

企業(西松建設)が、実在する個人・団体」の名義を、勝手に(承諾なく)使って、献金した場合(モトケンブログさんの(2)の事例に相当)

企業(西松建設)が、実在する個人・団体」の名義を、承諾を得て使って、献金した場合(モトケンブログさんの(4)の事例に相当)

「実在する個人・団体」が企業(西松建設)からの資金を元にして、献金した場合

以上の①と②は、「企業(西松建設)が、・・・献金した場合」、すなわち「献金した者」は企業(西松建設)であるから、収支報告書の「献金した者」の欄には「個人・団体(それが実在するかどうかを問わず)」の名前を記載すると「虚偽記載」となることにほぼ異論がないようだ(モトケンブログさんによると)。まあ、そうだろう(なお、今回の二階大臣のケースは、社員の承諾を取ってなかったので②のケースになるそうだ)。そして、③についても、①②と同様に「企業(西松建設)が、・・・献金した場合」なので、モトケンブログさんは、①②と同様だとしている。僕も、形式的基準で見ると「献金した者」はあくまで企業(西松建設)なのだと言えるのだから、①②と同じだという結論には同意できる(ただ、有る程度は実質的に見て、企業が個人・団体の「手足」となっている場合などは微妙と思う)。

では、④はどうだろうか? モトケンブログさんは、上記①~③に相当するものまでしか事例を出しておらず、上記③の事例(モトケンブログさんの記事の中では(4)の事例)が小沢秘書のケースに相当すると「匂わせたい」感じだったが、それは論理的におかしいということは前述のとおりだ。

この④は、小沢秘書のケースと同じだと思う。この場合は、原則として、「「実在する個人・団体」が、・・・献金した場合」なのだから(背後の資金源がどこであろうと)、つまり少なくとも形式的な基準からみると「献金した者」は「実在する個人・団体」なのだから、収支報告書には「実在する個人・団体」の名前を書くべきであり、それで足りる、と解すべきだろう。そして、このような解釈からは、今回の小沢秘書の行為は「虚偽記載」には該当しない(よって、認識=故意の問題を云々する前に無罪)、という結論になる。

以上の④についての僕の解釈は、モトケンブログさんの解釈(記事の中では(1)(2)(4)として書かれていた、上記の①~③までの事例についての解釈)を、④の事例についてまで論理的に発展させたものなので、おそらく、モトケンブログさんの解釈からも、論理的に、同じ結論になるのでは、と予想される。つまり、モトケンブログさんは、自らのブログの(4)の事例、つまり、上記③の事例(団体・個人の承諾を得て、企業が献金した場合)について、「ボーダーライン的な事例なので、反対の見解も多いだろうが、自分は虚偽記載と考える」というニュアンスの見解を述べられていたので、上記③のボーダーラインを踏み超えた事例である上記④の事例(「「実在する個人・団体」が、・・・献金した場合」)については、上記③のボーダーラインの事例とは異なって虚偽記載ではない、という結論を採られるものと予想される。

ただ、上記で「原則として」と書いたのは、例外がありえるからだ。それは、「団体」についての例外だ。個人については「実在するが実体のないダミー」というのはありえないが、団体の場合は「実在する(総務省への届け出はある)が実体のないダミー」というのが在り得る。そこで、次の⑤の事例が問題になる。

⑤上記④で、献金を行った「実在する(総務省への届け出のある)政治団体」が「実体のないダミー(又は、全くのダミー)」だった場合(上記で引用したモトケンブログの(3)に相当する問題)

この⑤の場合、元検事の郷原信郎弁護士によると、「全くのダミー」の場合は虚偽記載になる、という解釈になるらしい(例えば「ガナルカナル化する・・・」)。では、この解釈を前提としたた上で、「全くのダミー」(実体のないダミー)の場合とはどういう場合か? この「全くのダミー」が形式的基準では分からないのなら、実体的基準によることになるとモトケンブログさんにより指摘・批判されている。

郷原信郎弁護士などが言われている「全くのダミー(実体の無いダミー)」とは、形式的に見ても「存在しない場合」と同視できるような場合を指すと言ってよいと思うが、具体的にどのような事実があればそうなるかは、判例の蓄積を待つことになるだろう。

ただ、形式的に見ても存在しない場合と同視できるような「全くのダミー(実体の無いダミー)」と言えるためには、少なくとも社会通念(常識)から見て「これは完全なペーパーのみの存在だな」と言えるような場合でなくてはならないだろう。しかし、この点で、今回の小沢秘書のケースでは、西松建設が作った政治団体は、会社側からの依頼で自分の意思で就任した代表者が常駐していた(但し事務局は西松建設の総務部が担当)、毎年4~5回は宴会施設を借りてパーティを開いて毎回10人くらいが出席していた、団体の会員は会社側から依頼されて自分の意思で加盟していたなどの事実があったと新聞などで報道されている(参考)。このような事実関係から考えると、少なくとも社会通念(常識)からみて、今回の小沢秘書の事件に関する政治団体について、「全く実体がないダミー」(ペーパーのみの存在)だという結論が出る可能性は、ほとんど有りえないように思われる。

3. なお、最後に、第3の論点として、この「虚偽記載の罪」は形式犯なのか実質犯なのか、という問題もあると思う。他の弁護士のサイトなどはもちろん、モトケンブログさんのブログでも、この「虚偽記載の罪」が「形式犯」だということは当然の前提として議論されていたように思われる。

しかし、2009/3/25付け日経新聞の「小沢続投 危うい結束」という見出し記事の中には、「「表のカネ」の立件に踏み込んだ検察当局は、収支報告書で政治団体名義を使って会社名を隠す行為を「形式犯でなく、政治とカネの実態について国民を欺く重罪」と強調。 (中略) しかし、元特捜部検事の郷原信郎・桐蔭横浜大法科大学院教授は「寄付の名義の問題だけで、寄付自体は隠していない。裏金の寄付とは性格が異なり、処罰価値があるか適切に判断する必要がある」と捜査に疑問を投げかける。」という文章が載っていた。また、同じ2009/3/25付け日経新聞の「「政治とカネ」より厳格に」という見出し記事の中には、「・・・検察幹部の1人は「検察内部でもかつては実体がない形式的な犯罪という考え方が主流だった。社会全体が虚偽の情報公開に厳しい目を向け、ルールを守ることの大切さを認識し始めた」と明かす。 (中略) 別の検察幹部も「社会情勢を反映し、検察の常識が変わってきたことを政治家は分かっていない」と漏らす。」という文章が載っていた(参考)。

これらの記事から見ると、検察は、今回、政治資金規正法違反の「虚偽記載の罪」の解釈を、従来の形式犯だという解釈のままだと今回の小沢秘書の行為が無罪となってしまうため、急遽、これを(形式犯ではなく)実質犯だという解釈に変更して起訴した、という可能性が高い、と思う。

検察が具体的にどのような「実質犯」だと解釈しようとしているのかは、今はよく分からないが(例えば「政治秩序」という法益を侵害するか又はその危険を生じさせる実質犯と見るとか?)。

しかし、もし、今回のように小沢秘書を有罪にするために急遽(恣意的に?)「虚偽記載の罪」の解釈を形式犯から実質犯に変更するということが認められるならば、今後、検察は、いつでも突然に解釈を変更して一般人を不意打ち的に有罪として逮捕・起訴することができるということを認めることになるので、罪刑法定主義上も極めて疑問だ。裁判官がこのような検察による突然の(恣意的な?)解釈の変更を認める可能性は、極めて低いと思う。

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