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2009年8月21日 (金)

リベラルと保守

米国や日本の民主党がリベラル、米国の共和党や日本の自民党が保守と一応、思ってきたが、リベラルとか保守の定義を確認していなかった。

それを書いてるブログ(極東ブログ)があったのだが、それを参考に自分なりに表現すると、次のような感じらしい。

「リベラル」は、個人的自由(思想・表現の自由など)はすごく尊重するが経済的自由は有る程度しか尊重しない主義。

「保守」は、個人的自由(思想・表現の自由など)は有る程度しか尊重しないが経済的自由はすごく尊重する主義。

なぜ、人はリベラルと保守に分かれるのか。その一つの理由は、「出目や現状が裕福かどうか」というのは、かなりあると思う(日本有数の金持ちの鳩山由紀夫さんがリベラルであることを考えても、出目や現状だけではないのも確かだが)。

つまり、個人的自由は、現実には、経済的自由に支えられている。例えばサラリーマンが上司にゴマスリを言うのは個人的自由を失っている状態だが、それは経済的自由がないからそうなってしまう。逆に、経済的自由がある富裕層、例えば会社のオーナーは、従業員の個人的自由を侵害することが多い(セクハラやパワハラ)が、自分の個人的自由が侵害されることは少ない。

だから、富裕層にとっては、自分の力の源泉である経済的自由を確保できれば、その上に乗っかっている自分の個人的自由も確保できるので、経済的自由の保護が一番の関心事となる。

他方、富裕層でない多数の人たちは、もともと経済的自由がないから、富裕層の経済的自由の国家による適法な侵害(累進課税などによる所得の再分配)を支持する。また、経済的自由がない人たちは、しばしば経済的自由をもつ富裕層(会社のオーナーなど)から自分の個人的自由を侵害される(セクハラやパワハラ)ので、自分の個人的自由の確保に関心が高くなる。

日本国憲法では、思想の自由・表現の自由を経済的自由よりも価値の高いものと序列付けていると憲法学者が話していた。それからすると、経済的自由よりも個人的自由を尊重するリベラルの方が、今の憲法により適合した考え方だと言えるだろう。

以下「極東ブログ」より引用
・リベラル
 精神的自由や政治的自由のようないわゆる「個人的自由」の尊重を説く一方、経済的活動の自由を重視せず経済活動への介入や規制や財の再配分を擁護する。
・保守派(コンサバティブ)
 個人的自由への介入を認めるが経済的自由は尊重する
・リバタリアン
 個人的自由も経済的自由も尊重する
・権威主義者(オーソリテリアン)・人民主義者(ポピュリスト)
 個人的自由も経済的自由も尊重しない
・全体主義者
 権威主義者(オーソリテリアン)・人民主義者(ポピュリスト)の極端な形態。ファシズムや共産主義。

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