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2009年10月 3日 (土)

裁判員制度と民主主義と自由主義

東京新聞の2009/9/21付け記事より引用。

でも、問いたい。刑事裁判を、行政の官僚主導と同じ文脈で語ってよいのか、本当に裁判は民主的であるべきなのか。従来の裁判は、多数意見が優先される民主主義でなく、自由主義的であるがゆえに「あいつはクロ(シロ)」という世論の大合唱を無視して無罪(有罪)判決を出せる。国民が裁判権を握るべきは、刑事裁判でなく、行政責任を問う裁判の方だ。

上記は、落合洋司・元検事のブログの記事で知った。

確かに、裁判は民主主義の多数決の横暴に対する「個人の最後の砦」という役割がある。その裁判が「民主主義」(=多数の裁判員)に支配されるのは問題といえば問題だろう。

だから、この記事が言っているように、刑事裁判だけでなく行政訴訟にこそ、裁判員制度を導入すべきだろう。また、官僚である検察にこそ、裁判員制度のような民主主義的制度を貫徹すべきだろう(今も検察審査会があるが、これをもっと拡充すべだろう)。

裁判の話に戻るけど、裁判に民主主義的要素を導入すること(=裁判員制度)は、今までの日本からみると確かに必要だったと思う。

裁判員制度の参考とされた米国の「陪審制」は、歴史的には、「権力の濫用に対する防御壁(不正なあるいは熱心すぎる検察官や、検察官に迎合的なあるいは偏った裁判官に対する防御壁)」として位置付けられていた(ウィキペディアより)。

つまり、民主主義の理念は「人民の、人民による、人民のための統治」というものだが、この中の「人民による」という部分は、「自分たちのことは自分たち自身(自分たちの代表である議員を含む)で決めるべきだ、たとえその決定内容がレベルの低いものになるとしても、またその結果が失敗に終わってしまうようなものになるとしても、『自分たち又は自分たちの代表』ではない者(=官僚や職業裁判官)に決めてもらうよりはましだ」という考え方を示している。そして、この考え方を司法にも貫徹したのが米国の陪審制だった。

これに対して、今までの日本の司法制度は、「自分たちのことを、自分たちの代表ではない(選挙で選んだのではない)職業裁判官に決めてもらう、自分たちが決めるよりも、司法試験に合格した優秀な職業裁判官や官僚(=お上)に任せた方が、より内容が高度で正しい決定をしてもらえる」という考え方に基づくものであり、上記の「人民による統治」とは逆の考え方に基づくものだった。

だから、今回の裁判員制度の導入は、裁判についても「人民による統治」という民主主義の理念を貫通させるもので、とても意義があると思う。

だから、要は、その「多数決の横暴」の面を持つ民主主義的要素(裁判員制度)と自由主義(少数者である個人の自由や人権の救済)との兼ね合いだと思う。その点からは、今の裁判員の数は多すぎるので、これを職業裁判官の数と同じくらいにする方がよいのかも。

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