カテゴリー「発明仲間」の7件の記事

2011年8月 6日 (土)

老発明家(2)

数年前からの、もう子供も大きくなって、海とか関係のない夏が、また過ぎようとしています。

この「老発明家」というタイトルは3年前くらいに出したことがあって、その続きです。

Uさんは、この3年前のブログに書いた当時は81歳だったから、今は84歳。まだまだ元気がいい。

スカイプで全国の知り合いとカラオケをやったり、趣味人倶楽部という高齢者用SNSで活躍(?)したりしているらしい。

さっきも30分くらい話したが、原発からの放射性物質に関する発明を考えたので特許出願した方がよいかどうか迷っているらしい。仮に特許になったとしても、その頃には自分はこの世に居ないかもしれないからだ。

Uさんは身寄りがいないので、もしものときは財産は国にいく。以前、特許関係の財産(遺産)を僕にやると半分冗談で言われたことがあったが、丁重に断った。

Uさんは、今は、地方の老人ホームに居るのだが、今日の話では、今の地域は田舎で保守的で自分は周りから基地外扱い、少し離れた街中の老人ホームに転居するつもりと言っていた。

もう何件か下見をしていて、転居先も決めているらしい。

昔から「自由奔放」というのがぴったりの人だが、84歳で引越しをして人間関係もリセットするというバイタリティには驚くと同時に感心した。

追記:

最近、このブロクにはほとんど書き込みしてませんね。それでも、今も毎日、検索エンジンなどから一日数十~110件くらいのページビュー(ここ4ヶ月をみると、ページビューの平均は75件/日、ユニークアクセスの平均は50件/日)があって、自動的にアクセスカウンターが上がっているのは不思議です。全く書き込みしてないのに、何人かの発明家から新しくメールをもらったりもしています。
僕の発明については、今まで出願中だったけど特許になったというものが今年になってからも何件かあって、最近はもう余り数えていないけど、今までの累計で40件は軽く超えたでしょう。

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2009年11月 1日 (日)

ハチャメチャな人(発明仲間)

僕が今までに大きな影響を受けた発明家は5人くらいなんだけど、その中の1人、Gさんには発明家の生き方や姿勢というようなものを教わった。

Gさんとはある会合で知り合ったが、そのとき僕は30代後半、Gさんは50歳くらいだった。今から15年以上前だ。

Gさんは、そのとき、発明を始めたのは数ヶ月前からだと言った。ちょうど数ヶ月前から持病の糖尿病が原因で急に視力が極端に落ちて土木設計の仕事が全く出来なくなったが、ちょうど視力が落ちたその頃から急にいろんな発明やアイデアがどんどん湧いてくるようになったと言っていた。

医者からは、このままいくと、数ヵ月後には全く見えなくなると言われていたらしいが、Gさんはすごく元気で威勢が良かった。

Gさんとはお互いに気が合ったのか、誘われて何度かGさんの事務所にもお邪魔した。事務所は、十数人以上は入りそうなただっ広い空間に、女性事務員が1人居るだけだった。多分、数ヶ月前から設計の仕事ができなくなって何人かのスタッフをリストラしたのだろう。

事務所もいつか閉めるのだろうとは思ったが、Gさんは意気軒昂という感じだった。仕事はなさそうで、事務員さんが暇そうにしてたけど、僕がいる間だけでも、生命保険会社の担当者と交渉というか担当者を怒鳴りつけてたり(眼の病気による保険金のことで揉めてたようだった)、個人的な友人が訪ねてきたりして、結構やることはあるようだった。

僕がGさんを見て印象的だったのは、50歳にもなって、こんな自由で型破りでハチャメチャな人が居るのか、ということだった。とにかく、話し方から、行動まで、何から何まで自由気まま、自分の思い通り、という感じだった。視力が極端に落ちてそのうち失明すると言われてても、前向きで積極的だった。

もちろん、悩みは深かったろうし、僕にそれを見せないだけだったかも知れないが。

Gさんとは発明とは関係なく付き合いたいと思っていたが、しばらく会えないままに事務所に行って見ると、出て行って、もぬけの殻になっていた。自宅の住所などは聞いてなかったので、連絡はとれず、今も消息は分からないままだ。

わずか数ヶ月の短い付き合いだったけど、発明家あるいは自由人の生き方というか、姿勢のようなものを教えてもらったと思う。

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2008年10月19日 (日)

アイデア社長 2

以前、発明仲間のアイデア社長について書いたけど、もう一人、親しくしていたアイデア社長がいた。

そのアイデア社長、Mさんとはここ1年くらい、連絡してなかったのだけど、思い出した。ある人から、最近、破産したらしいと聞いたので。

Mさんは、建築関係資材の製造販売の仕事をしていた。自分で発明をして特許も取っていた。しかも、その発明を基に実際に建築資材を作って、自社の独自製品(特許製品)として販売していた。従業員は営業マンが何人か居ただけで、自分で製造する設備はなかったので、多分、受注を受けてから製造委託してたのだろう。

Mさんは、僕より5歳くらい年上で、建築関係の仕事は長いらしく、すごく成功したという訳ではないが、そこそこ儲かっているらしかった。

Mさんとは、6年くらい前にちょっとしたことで知り合って、最初に会ったときは、昼の2時頃から夜の11時頃まで、途中でお茶や食事のために場所を移動しながらトータルで9時間くらい話し続けた。若い頃はそういうことは珍しくないが年を取ってからはオジサン2人だけで酒なしで9時間も一緒に話し続けるというのは数年に一度あるかないかだ。まあ、そういう風に意気投合した。バイタリティがあって、ユーモアがあり、話がうまくて人を飽きさせない、頭も切れる、という印象だった(ただ、僕を含めて多くの発明家に共通の特徴だが、自分のことを過大評価するという面もあったかもしれない。)。

Mさんも、僕のことを気に入ったようだった。というのは、最初に会ってからまだ半年も経っていないときに、「中国に商談に行くので、一緒に付いて来ないか」と誘われたから。

聞いてみると、「Mさんの会社の独自製品(建築資材)は素晴らしいので、現地の企業と一緒に提携してやるなら何社か紹介しますよ」という話が、たまたま知り合ったブローカーのような日本人から、持ちかけられたらしい。そのブローカーの知り合いの日本人が上海でコンサルタント会社の雇われ社長をしていて、日本企業と現地企業の橋渡しをしているとのこと。

Mさんは、僕に「一部始終をアンタの目で見て、総合的な感想を言ってくれんか」と言った。まあ、その頃はちょうど忙しくなかったし、旅費や食費などの一切の費用は見ると言われたので、冬だったけど(死亡者が出たサーズ騒動はその翌年だった)、付いていくことにした。

商談で会う相手は全部コンサルタント会社の社長がお膳立てしていた。日程は、1週間くらいで、その間に青島→上海→湖南省→上海→青島というような日程で、とにかく飛行機とタクシーで動き回った。メンバーは、Mさんと僕と、日本人のブローカーのような人と、上海のコンサルタント会社の雇われ社長(日本人)と、補助者の中国人と、通訳アルバイトの日本学生(30歳代)という「ちょっと大袈裟な人数」で移動した。しかも、商談した後は必ず会食やカラオケなどで深夜まで飲んでたので、それらは全て(おそらく商談の相手の数人の飲食代も)Mさんの出費だったろうから、これだけでも相当の散財だったと思う。

そんな感じで1週間が経ったが、商談する企業は1日当たり1~2社で、従業員数十人から数百人程度の中小企業という感じで、こんなチンケな企業に会うためにわざわざ湖南省まで飛行機で飛んでいって意味あるのか、と疑問を持った。というか、企業はいっぱいあるだろうが、そのコンサルタントが知っている企業だけが相手なので、限られている。コンサルタントの費用もバカにならない(商談の打ち合わせのためにMさん抜きで勝手に顧客と飲みに行って、その飲み代だけをMさんに請求したりということも、しょっちゅうあったらしい)。こんなんなら、商工会議所やジェトロなどの公的機関がコンサル料はほぼ無料で中国企業との商談会とかやっているから、その方がよっぽど費用は掛からないのに、と思った。

どうも、Mさんは、コンサルタントとブローカーに利用されてるのような気がした。また、Mさんの製品が日本で成功したので中国に進出しようというのなら分かるが、日本で長年やってて特に成功してないのに中国で成功しようというのは順序がおかしいような気もした。

帰国してから、「あのコンサルタントとブローカーは胡散臭いというか怪し過ぎるので、もう止めたら?」と言いたかったけど、Mさんは、コンサルタントとブローカーのことを物凄く気に入ってたようで、ちょっと言い難い雰囲気があったので、言わなかった。Mさんが相当の余裕資金を持っているように僕からは見えたのも、言わなかった原因だ。今から思えば、きちんと言っておいた方が良かったと思う(そのためにこそ僕に一緒に付いて来てくれと言ったのだろうから)。「商工会議所とかでも同じことはやってくれるのでは」ということは言ったが、「ああいうのはダメだ」という答えだった。

まあ、僕はよく分からないし、一緒に行ってもほとんど役に立てることはないと思ったので、それ以後、同行することは無かった。その後も、Mさんとは、中国の話しは抜きで親しく付き合っていたが、2~3年過ぎる頃から徐々に付き合いは薄くなって行った。

Mさんは、その後も、例のコンサルタントやブローカーとは親密に付き合ってて、1~2ヶ月に一度くらいは、中国に行って同じような感じで商談していたらしい。幾つかは話が進んだりしたらしいが、そのためにかえって出費がかさんだりして(例えば合弁会社を作ろうということになればそのことでまたMさんの出費がかさんでしまう)、とにかく動けば動くほど金が出て行ってしまうのだが、金が入ってくることはほとんど無かったようだ。

しかし、当時は、中国五輪まで数年という建設ラッシュで、建設業界ではユーフォリオ(バブル的な陶酔)があって、Mさんもそれに乗せられていたのかもしれない。そんな感じで、数年が経ったが、中国五輪も終わってみたら、ほとんどプラスは無くマイナスだけが残ったということかも知れない。

まあ、そんな感じでMさんとの付き合いは5年くらい続いたが、今は連絡が付かない。先日、携帯電話に電話してみたが、繋がらなくなっていた。

確かに、Mさんは破産したらしいけど、それは、僕を含めて自営とか会社を経営している人の宿命というか良くあることなのだろうと思う。Mさんは、失敗に終わったとは言え、果敢に挑戦した結果なのだから立派だと思う。

あれだけバイタリティのある人だから、今もどこかで元気に仕事をしたり発明を考えたりしているのだろうと思う。

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2008年7月26日 (土)

アイデア社長

ここ数年、音信不通なのだが、忘れられない発明家がいる。

その人、Aさんとは、12~13年前に、ある発明の会合で知り合った。そのとき、Aさんは地方のある中堅企業の総務部長だった。僕より10歳以上年長だったので、当時は今の僕と同じ50歳前後だったろう。とにかく、Aさんは多弁で派手な人で、いつも周りに人が集まるというか、いつも周りを巻き込んで何かをやるという感じの人だった。

僕は発明には2種類あると思っている。駅前のラーメン屋タイプの発明と、山奥の料亭タイプの発明とだ。つまり、多くの企業から沢山の発明が出てくる分野の発明(競争が激しいので出願しても特許は難しい発明)と、誰も注目していないし誰も事業化しようとしないニッチの分野の発明(競争がないので出願すれば特許になるが多くの企業は事業化しようと思わない発明)との2つだ。前者を狙うのが過去ログで述べた個人発明家のビジネスモデルの2番目のものだ。

Aさんは、この2種類の発明の双方をよくしていた。駅前のラーメン屋型の発明は当然ながら、調べたら既に沢山の出願が出ていてダメだというものだった。しかし、Aさんの特徴は、山奥の料亭型のような、誰も目指さないような分野のすごく変わった発明をよくすることだった。誰も注目しないような発明をする。どうやって考え付いたのかと聞くと、「寝てるときに夢に出てきた」とか言う。いくら変人が多いという発明家でも、そういう、夢などから発明するという人は少ないと思う。

それと、Aさんの特徴は、多くの発明家と異なって、話が巧みで人を使うのが上手いということだった。発明家の多くは、僕もそうだが、多弁な人は多いが、変り者と見られてしまったりして人を使うのは苦手な人が多いような気がする。

それで、Aさんは、50歳頃、会社を辞めて、同僚や部下を何人か連れて別の会社を作って社長になってしまった。Aさんは、貫禄があり、自己顕示欲も強く、「社長」にはぴったりの人だった。しかし、Aさんは、それまでの会社で「総務部長」をやっていたように、「金を稼ぐ技術」は無かった。大企業なら「社長」だけでよいかもしれないが、中小企業の社長は、「マネジメントをやる社長」だけではダメで、「プレーヤーとして金を稼ぐ技術」をもってなくては会社を維持していけないと思う。

当初は、いろんな人を巻き込んでいろんなことをやっていたが、直ぐに別のことを始めたりして、うまく行ってないようだった。Aさんは、「社長」をやりたかったらしい。それと「個人発明家」として成功したかったらしい。しかし、「社長」はうまかったが、「金を稼ぐ」ことができなかった。部下にもその能力が無かった。会社を作って3~4年はいろいろやっていたが、そのうち、会社の金が廻らなくなって、借金もして、夜逃げ同然で他県に転居してしまった。

僕とは個人的に親しかったのだが、いつ転居したかも知らなかった。でも、そのうち連絡があるかなと思っていたら、転居後1年くらいして連絡が有った。詳しいことはよく分からないが、借金はあったが転居前に住んでいた自宅(空き家)はまだ保有していて、たまに郵便物などを取りに戻っていたらしかった。

それで、新しい住所でも、周囲の人を巻き込んで発明の試作などをしていると聞いた。まあ、苦労したからか、かなりやつれて年を取った感じはあったが、相変わらず頑張っているなと思った。

その後、Aさんとは3~4年の間に数回合ったのだが、その後、今から数年前から、バッタリと音信不通になってしまった。住所も知らない。

今では付き合いは無くなったが、Aさんとの付き合いはトータルでは7~8年になると思う。知り合った当時、僕は、Aさんと、最近こういう発明をしたとか、それならこうした方がよいのでは、などの発明談義やバカ話をするのが、すごく楽しみだった。Aさんもそうだったろうと思う。Aさんと話してて、僕は(社長をやっているAさんが僕のことを発明家として認めてくれているようなので)発明家としてやってみようかなと思い始めたのだ。その意味では、恩人の一人だと思う。

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2008年6月22日 (日)

日曜発明家

僕が今も付き合っている発明仲間の一人がJさんだ。Jさんとは、13年前に知り合った。Jさんは、僕が「この道」に入る切っ掛けになった恩人だ。

Jさんは、僕の郷里に住んでいる。ある発明の会合で知り合ったのだが、知り合った当時、Jさんは、ちょうど大阪の大手電気メーカーからUターンしてきて、地元のメーカーに転職した後だった。大手電気メーカーを辞める前は、エンジニアとして年に30数件のペースで発明の出願をするなど、少なくとも発明の数はトップクラスだったらしい(実力もトップクラスだったろうと思った)。特許明細書の書き方も、企業研修で習っていて、慣れているようだった。アナログ回路やデジタル回路について基礎からの体系的知識を持ち、最先端の知識も持っていたので、地元のメーカーでは勿体ないと感じた。年は僕と1歳違いだった。

Jさんと親しくなってから聞くと、Jさんは、地元にUターンした直後から、自分で次々と発明して次々と出願していた。家電製品の発明が多かったと思うが、他の全く別分野の発明、例えば道路関係とか自動車関係の発明なども出願していた。内容は斬新な基本発明が多かった。

サラリーマンとして生計を立てながら自分の自由時間で発明して出願する「日曜発明家」とでも言うのだろうか。Jさんの転職した職場も少しは電気関係の仕事があるらしいが、家電製品などは全く作っていないので、「自由発明」は自分で出願しても全く問題ないよね、と2人で話した(Jさんは、以前の大手電気メーカーに居たときは、その大手電気メーカーは家電製品なども販売していたので、家電製品の発明をしたら会社に譲渡して会社の名で出願していたらしい)。

Jさんは、前回の記事のUさんとは違って、礼儀正しく温和な人だった。まあ、会社に勤めながら発明をする人は大体そうだろう。でないと会社勤めは続かない。

僕は25歳のときに実用新案の出願をしたりして、発明には興味はあったのだが、それはあくまで趣味と思っていた。しかし、Jさんは、姿勢が全く違っていた。Jさんは、大手電気メーカーの技術者が研究しているのと同じ分野(ターゲット)の発明を一足早く発明・出願して、大手電気メーカーにライセンスする(大手電気メーカーがライセンスを受けざるを得なくなるようにする)ことを狙っていた。まさに、個人発明家のビジネスモデルの2番目のものを、自分で考えて実践していた。

そんなことは無理ではないかと思ったが、Jさんは、「自分は大手電気メーカーの中に居たけど、内情を見れば、所詮は同じ人間がやっているので、大したことない、やれる可能性は十分ある」、と言った。それを聞いて、「それなら、オレもやってみよう」と思った。それから、僕は、「この道」に突き進み、発明を加速し、出願をどんどん出して行った。

それが今から13年前なのだが、その後、Jさんはストレスからか体調を崩して、それまでの次々と発明をして出願するということは抑えるようになった。知り合った当時、Jさんから、前の会社(大手電気メーカー)に居たときは楽しかった・・・という話を聞いていた。地元でいろいろストレスがあったのかもしれない。

でも、今も、自分の出願や特許についてのメーカーへの売込みなど、いろいろやっているようだ。電気や物理の知識はすごいので、今でも、技術的に分からないことなど、いろいろ教えてもらっている。これからも、ずっと付き合っていきたい発明家の一人だ。

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2008年6月21日 (土)

老発明家

僕が付き合っている発明家は2人いる。そのうちの一人、Uさんは、今81歳。知り合ったのは、15年くらい前で、僕の父と同年だったので、ヘーと思って、親近感をもった。

初めて出会ったとき、Uさんは、「オレのような人間もいるんだよ」と言った。僕は、昔から、自分で自分のことを変り者だと思ってたが、Uさんの変わりようは僕の比ではない感じだった。

僕の父は数年前に亡くなったが、Uさんはまだまだ元気で、たまに電話してきたりする。昨日もいきなり電話してきて、○○という大手メーカーが(自分の発明に)喰らい付いてきた、と興奮して話すものだから、そんなことはないだろう(どうみても、Uさんの出願してる発明は企業が乗ってきそうなものではなかった)と思い、「詐欺かも知れないから気をつけた方がいいですよ」、と言った。しかし、こちらの言うことはお構いなしに、これから、いろいろ手伝ってくれとか言われてしまった(ハー)。よく聞いてみると、○○というメーカーの人ではなく、そこと取引があると自分で言っている人が使わせてくれと言って来たらしいが、ただその人もネット上で知り合っているだけで、実際に会ったことはないらしい。どうも、よく分からない。発明家には、もともと、自分の発明のことを興奮して大げさに言う人が多いようなのだが。

Uさんは、昔は家族が居たらしいが、20年くらい前から身寄りは無く、十数年前から、老人ホーム暮らしだ。同じ県内にある複数の老人ホームを、4回くらい引越ししている。78歳頃にも、前の老人ホームから今の老人ホームに引っ越したが、そのバイタリティには驚いた。一度、部屋に遊びに行ったことがあるが、自分の学生時代のアパートの部屋を思い出した(ディジャブというのか)。散らかり放題という感じで、パソコンやゲーム機も無造作に置いてあって、NHK教育番組のパソコン講座のビデオテープが散乱していた。勉強家だなと感心した。

Uさんが発明を始めたのは、50歳になってから、と言っていた。50歳を過ぎて、東京で働いているとき、発明学会を知って発明を始めたらしい。今も、パソコンでホームページを作って、いろんな企業のホームページを検索してメールなどで発明の売込みをしているらしい。暇なときは、ネットで知り合った人たちと、スカイプでカラオケをやったりしているらしい。

オレもこういう老人になるのかな。

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2008年4月19日 (土)

発明仲間

僕にも、少ないが発明仲間はいます。でも、それはまた別の機会に。ここでは、発明仲間には、広い意味もあるという話です。

今の僕は自営業で、僕とアシスタントの女性とでやっていますが、このアシスタントの人の中には、僕と合わなくて数ヶ月で辞める人もいれば、数年以上続く人もいます。今まで何人かの人にアシスタントに来て頂いて、当然ですが、いろんな方がいましたが、発明の観点から眺めると、2種類かなという気がしました。

今までのアシスタントの人の中には、広い意味での発明というか工夫をちょくちょくやる人も居て、そういう人は僕と合ってたようです。例えば、炊事場の洗剤の位置がある朝から変わってたり、机の上に箱を置いてそこにガラクタを集めてたりとか、すごく小さなことだけど、「ああ、なるほど!」と思うときは、こちらも「発明仲間だな」と思って、ほんわか嬉しくしくなります。

思えば、僕の父は、地方公務員で根っからの文系でしたが、結構、いろいろな発明というか工夫をしていました。僕はその血筋なのでしょう。父の「最高傑作」と思うのは、テレビのリモコンの全体をサランラップ(透明包装フィルム)で包んでたことです。父は晩酌しながらテレビを見てたので、酒をこぼしてリモコンを濡らしたことがあったのかも知れません。

僕の家族や友人や昔の同僚たちをみても、人間は、しょっちゅう、いろんな発明や工夫をし続けている人と、全くしていない人と、に別れているように思います。人間の種類が違うような気さえ、してしまいます。

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